Meta-Perception

主観至上主義の時代をメタに考える

イノベーションとかいう曖昧模糊とした言葉の魔力とイノベーターの倫理観

この間たまたま別件の用事で近くを通りかかったので、大学時代の恩師の研究室にアポもなく突然お邪魔して3時間以上ぶっ通して議論してきた。

恩師の懐の広さには尊敬の念を禁じ得ない…。 普通かつての教え子とはいえいきなりアポなしで訪問してさあ議論しましょうとか言ってきたら追い返すだろう。(しかも全く優等生ではなく先生の言うことを聞いてこなかった筆者ならなおさら。)

恩師は経済学が専門だが、ゼミからデザイナーを輩出して以来、デザイン的なアプローチを勉強しており、筆者もゼミ生時代に勉強した。 そんな教授であったので、恩師は経済学以外では「イノベーション」や「デザイン」といったテーマとなると止まらなくなるのである。

その中で盛り上がった「イノベーションとは何か?」「それを求めることは重要なのか?」等のテーマを備忘のために記録しておきたい。

そもそもイノベーションってなに?

イノベーションという言葉は仕事をしていればよく聞くし、学生でもイノベーションを起こしたいです!と目を輝かせて語る人にはたくさんあったことがある。

でもそもそもそれっ何?という素朴な疑問を投げつけると皆答えに困るようだし、たいてい人によって答えることが違う。

ウォークマンiPhoneのような具体的なプロダクトだったり、Airbnbのようなプラットフォームだったり、生産手法や思考法等のプロセスであったり、さらに民主主義や資本主義のような抽象度の高い理論やアイデアであったり、いろいろなものがイノベーションと呼ばれるようだ。(筆者の記憶より)

言葉の生みの親たるシュンペーター先生曰く

新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。つまり、それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすことを指す。(Wikipediaより)

要はこれまでに誰も見たことがないモノで、かつ世の中をよくするナニカイノベーションと定義できそうである。

世の中をよくするが、見たことがあったり予想がつくようなものの場合はイノベーションとはおそらく定義されない。 例えば、よりハイスピードの処理ができるスマートフォンが売り出されたとして、人々がより快適に掌の上でデジタルライフが送れるようになっても、大して新鮮味はないし、イノベーションとは呼ばれないだろう。

逆に誰も見たことがないが、それで世の中が良くならなければやはりイノベーションとは定義されないだろう。 現代アートで見たことがない芸術作品を見ても、「新しい!」とは思っても、それで取引費用が低減したり、貧困者を減らしたりすることはない。 (筆者は現代アートが嫌いなわけでは全くない。為念)

でもそれって後知恵じゃないか?

このイノベーションの定義に沿って考えてみる。 人は基本的全く新しいモノをすぐに受け入れられるほどの柔軟性はない。 であれば「本物のイノベーション」なるものが存在したならば、それを見た人の反応は以下の3パターンに大別できるであろう。

  1. それを受け入れる
  2. それを拒絶する
  3. とりあえず様子見する

感覚的には3.が一番多そうだ。 要は、「本物のイノベーション」なるものが存在したとして、それが世に出た瞬間は議論を生むものであり、すぐに世の中的にイノベーションとは認定されないのである。

iPhoneイノベーションととらえるならば、イメージがわくだろう。 始めてiPhoneが出現したときは、こんなもの誰が使うんだ!というリアクションとこれは面白い!というリアクションに筆者の周りの人間は分かれていたように記憶している。 今ではiPhoneは受け入れられ、すっかり世の中を変えてしまった。

イノベーションが後知恵なら、何を目指せばいいのさ

当然こうなる。 イノベーションを起こすつもりで頑張ったとしても、所詮イノベーションは結果論だとすれば、何を目指せばいいのか。

筆者はイノベーションに再現性が無い理由はここにあるのではないかと勝手に思っている。

イノベーションは後知恵的に定義される結果論であり、その結果が導かれるまでの間にある変数が多すぎるが故、イノベーションは再現性が無いのである。

では、再現性のないイノベーションを追い求めることは間違いなのか? それは筆者にはわからない。

ただ、何でもかんでもイノベーションと呼んでそれを追い求めることは危険であると考える。 イノベーションとは何か?と聞いて帰ってくる答えが人によってかなり違う上、場合によっては同じ人に聞いても答えが違うことが稀によくある。

これはイノベーションを定義できていない状況であり、定義できないものは自分でコントロールできないことを意味する。 自分でコントロールできない曖昧模糊としたな言葉を掲げ、それを大義名分のように振りかざしたとして、世の中をよくするナニカなど起こせないだろう。

イノベーションの負の側面

筆者が恩師と議論する中で、なるほどと思ったことがある。 イノベーションには負の側面があるということだ。

先述のイノベーションの定義の中に「世の中をよくするナニカ」という言葉を入れたが、「世の中が良くなる」とはどういうことだろうか。 (この後は、イノベーションの定義の新しい事の部分は脇において議論を進める。)

当たり前であるが、世の中が良くなるとは、実はイノベーションの起こる前と後で何かが変わった事、すなわち変化を前提としている。

だが変化には必ず、サイドエフェクトがある。 筆者の恩師たる経済学者の立場からすれば、イノベーションによる変化が起こる前と後で、社会全体の効用が拡大していれば、ひとまずそれは世の中をよくしたと言えよう。

しかし当然、それには公平性と時間軸の観点を考慮に入れなければならない。

簡単な思考実験をしてみる。

思考実験①

  • 全人口100人の世界を想定する。
  • AIの進化によって10人が不幸になり、一人当たり10の効用が失われるとする。
  • しかしAIの進化のおかげで、90人が一人当たり2の効用が増加するとする。
  • この時社会全体の効用の変化は、増加分180(90×2) - 損失分100(10×10) = 社会効用の変化+80
  • 以上より、AIの進化は世の中をよくしていると言える

典型的な功利主義者の主張である。 この場合、不幸となった10人はよりよい社会のための生贄のようなものである。 ここにあるのは公平性ではなく、合理性だけである。 しかし実際の社会では、この生贄となる人々のことを考える必要があるのではないだろうか。 公平性はイノベーション(というか変化)を論じる上での一つの論点となり得る。

思考実験②

  • 全人口100人の世界を想定する。
  • iPhoneにより、100人全員が掌の上で何でもできるようになる。
  • それにより、2016年時点で100人の効用が10増加したとする。(合計1,000の効用増加)
  • しかしiPhoneのせいでだんだんと人々は思考を放棄するようになり、2100年以降はイノベーションが起こらない人類社会となってしまった。

時間軸を長くとって考えてみるとこんなこともあり得る。 だいぶ極端な話だが、あまり外れてもいないという感じもする。 電車ではスマホを見ていない人の方が少ない。スマホから来る情報を処理するだけで、自分の脳みそで思考していない人がいかに多い事か。 短期的に世の中をよくしていても、長い時間軸で考えるとそうでもないことはたくさんあるように思う。

イノベーターを世の中を本当によくする存在と定義するならば、イノベーターたる者はみな、この公平性と時間軸の目線をきちんと持ち、自分のアイデアやプロダクトがサイドエフェクトを持つことを自覚し、それに責任を持つことが重要であると考える。それがイノベーターに求められる倫理観ではないだろうか。

世の中をよくするなんておこがましいことを目的に持ってくるとしんどい

思考実験を通してい考えてみたのは、「世の中をよくする」とはとても難しいということである。 あるアイデアを思いつき、それが「世の中を良くする」と言い切るためには、変化によって生じるアップサイドとダウンサイドの両方を鑑みた上で、自分のスタンスを取る必要がある。(功利主義でも、資本主義の論理でもなんでも構わない) しかしどのスタンスを取っても現実には必ず不幸になる人がいるので、反論の余地が残る。

それでも人類をより今より豊かにすることは、今の社会をつくり、現代にいたるまでバトンをつないでくれた人類の偉大なる先輩方と、自分たちの後に続く世代に対する義務であることは確かである。

でもやっぱり、イノベーションは社会をよくすることを目標に掲げて頑張るには現実との乖離もあるし、曖昧すぎてしんどい。

恩師との議論の末の一端の結論は、やはり自分の手触りのある視野で一人でも幸せな人を増やすように頑張ることではないだろうか、というありきたりなものであった。

しかし筆者が思うに重要なことは、手触りのある視野で幸せを一つ作りつつも、今回備忘に記載したような全体感や抽象度の高い社会全体とそれをつなげる視座の高さを持つことであると思う。